物語 「3次方程式の解法発見」
11世紀に入った頃、西ヨーロッパは、ようやくにして中世の暗黒時代といわれる長い眠りから目覚め始めた。イタリア北部やフランドル地方においては、諸都市が繁栄し、それらを基地とする商業が急速に発達してゆく。キリスト教会の抑圧の下にあって、それまで影を潜めていた古代ギリシア・ローマの文化の重要性が認識され、その古典を学ぶことから出発した文化活動は、後世、「ルネサンス」と呼ばれているが、初めはイタリアにおいて発展し、後に広く周辺に波及した。14世紀初期以降、文学、美術、建築、自然科学など多くの分野において、極めて旺盛な独創的活動が実に300年ほども続いたのである。むろん数学のルネサンス活動も行われたが、その状況は他の分野の場合と大きく異なっている。まず、その開始が他の分野に比べて100年以上も遅れた。なぜなら、それはユークリッドを始めとする古代ギリシア数学の古典の発掘から始まったのであるが、当時の人々にとってはそれらは非常に難解であり、十分に理解できる数学的能力の持主は極めて少なかったからである。また一方、交易の発展は、アルゴリズム(インド・アラビア記数法)の普及と相俟って、算術および商業数学の発達を大いに促進した。それが数学のルネサンスの一つの特徴でもあった。算術や商業数学の進歩は代数学の発展につながり、まだ負の数は認められることはなかったが、ルネサンス末期には記号と文字の使用が始まった。代数学においては、関心が3次方程式を解くことに向けられた。紀元前2000年頃には、古代バビロニアにおいて2次方程式が解かれていたが、3次方程式は本格的には扱われていない。その後、ルネサンスの時代に至るまでおよそ3500年という長い期間、ギリシア人、アラビア人、イタリア人により特殊な3次方程式は取り上げられることはあっても、一般の3次方程式の解法はついに発見されなかった。以下に述べるのは、ルネサンス最盛期のイタリアにおいて、3次方程式をめぐり、五人の優れた数学者たちが繰り広げる物語である。
1. ルカ・パチョーリ(c.1445~c.1517)
パチョーリはイタリアのトスカーナ地方のサン・セポルクロで生まれた。彼は、少年時代に、同郷の高名な画家ピエロ・デッラ・フランチェスカ(c.1415~1492)から学問の才能を認められ、指導を受けるなど、非常に大きな幸運に恵まれた。ピエロは、壁画 「キリストの復活」 や「キリストの鞭打ち」などで知られるルネサンス中期の大画家であるが、実は、彼は数学者でもあり、幾何学の書物を著しているのである。その中で、彼は、正多角形や球面、そして球面に内接する5種の正多面体を取り扱い、それらの面積や体積を求めている。面白いのは、その際に円や球の直径を7としていることである。直径7という数値は一見奇妙に思えるが、それは、彼が円周率の近似値22/7を用いていたからである。15世紀末のルネサンス人が、紀元前3世紀末にアルキメデスが得た円周率の近似値を用いていたことを考えると、いろいろな意味で大変興味深い。それはともかく、パチョーリはこの書物から大きな影響を受け、後年彼の著書においてもこれを大いに参考にしているのである。
パチョーリはいわば放浪者であった。彼は、ローマ、ペルージャ、ザーラ、ナポリ、ミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ボローニャなどを旅し、一時はオリエント地方へも足を伸ばしたようである。彼はフランチェスコ会の修道士であった。戦乱の絶えない時代に数学の研究を続けてゆく上で、修道士であることが大変好都合であったらしい。彼は、同世代のレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)とは親しい友人であった。彼のある著書の挿絵はレオナルドの筆によるものであると言われている。万能の天才と謳われているレオナルドのことであるから、当然、彼も高い水準の数学の素養を持っていたと思われるが、数学への本質的な貢献は全くなかった。
パチョーリは、英明なルネサンス君主として名高いウルビーノ公フェデリーゴ・ダ・モンテフェルトロ(1422~1482)の知遇を得ていた。慈しみの心をもって善政を敷いたこの領主は、領民に深く敬愛され、当時の思慮ある人々から「イタリアの光」と称えられた。教養豊かな彼は、古典の名著の豪華な写本を数多く収めた図書館を宮廷の中に持っていた。それは、当時、ローマ教皇庁の図書館やメディチ家の援助に支えられていたフィレンツェのサン・ロレンツォ図書館と肩を並べるほどの見事な図書館であった。パチョーリはこの図書館において自由に閲覧を許されていたという。それは、彼にとって、古典の教養を吸収したり、著作の構想を練る上で、大いに有益であったに違いない。余談ながら、ピエロ・デッラ・フランチェスカは、このウルビーノ公をその夫人とともに肖像画に描いたが、その有名な絵は、現在、フィレンツェのウフィッツィ美術館に展示されている。
1494年、パチョーリは畢生の大作「大全」を著した。1450年頃にドイツのグーテンベルクにより活版印刷術が発明されたが、間もなくヴェネツィアに印刷会社が設立され、ヴェネツィアはヨーロッパ最高の水準をもつ出版業の中心地となった。「大全」はヴェネツィアで出版されたのである。これは、独創性には欠けるものの、算術、代数学、幾何学、商業数学の四つの分野における当代の知識の驚嘆すべき集大成であった。しかも、この書は、ラテン語ではなくイタリア語で書かれたために、当時の知識人ばかりでなく多数の庶民、特に多くの商人や職人に読まれ、極めて大きな影響力をもった。それ以前に普及していたすべての算術書はその重要性を失った。「大全」は、代数学を扱った書物としては初めて印刷されたものであったが、代数学について何ら新しい要素を含んではいない。ここで、彼は、主に1次、2次方程式を論じているが、3次方程式は一般的に解くことは不可能であると書いている。古代バビロニア人が2次方程式を解いて以来、およそ3500年の時が経過し、ルネサンスの時代が到来していた。しかし、3次方程式についてはその根の近似値を求めることは行われていたが、未だにその一般解法は発見されていなかった。3次方程式の一般解法の探究に向けて、代数学が、算術や商業数学の段階を脱し、より高度な理論を獲得してゆく端緒となったのが、この 「大全」 であった。
2. シピオーネ・デル・フェッロ(c.1465~1526)
パチョーリは、死の10年余り前に、ボローニャ大学の数学の教授として赴任した。シピオーネ・デル・フェッロはその時の同僚である。シピオーネが後に3次方程式の解法の研究に没頭したのは、この時のパチョーリの身近な影響によるものであろうと推測される。
シピオーネは、ボローニャの生まれで、死ぬまでボローニャ大学の教授を務めた。彼の生涯について知られているところは非常に少ないが、彼こそは、長年の懸案であった3次方程式の解法の第一発見者なのである。ただし、彼が扱ったのは、x3 +ax= b の型の3次方程式であった。その発見は1515年頃のことであるが、その時の事情については明確に知られている訳ではない。シピオーネが自力で発見したことは間違いないと思われるが、アラビア人の著作から見出した可能性があるとも言われている。彼はその方法を公表せず、長い間秘密にしていた。このようなことは、現代人の考え方からすると理解し難い。現代においては、何か新しい事実を発見した場合には、できるだけ早く論文や著書として公刊し、発見者としての公認を得ようとするのが普通である。しかし、当時はそのような時代ではなかった。というのは、数学は「金儲け」の手段でもあったからである。その頃、数学者の間で 「数学試合」 なるものが流行していた。それは、二人の競技者が同時に高額の賭け金を証人に預け、互いに相手に30題ずつ問題を提出して、それらを一定期間内に解くことによって勝負を争うというものであった。こうした方法で数学者たちは富と名声を得ていたのである。 そのような訳で、シピオーネは、来るべき数学試合に備えて、自分一人しか知らない3次方程式の解法をひた隠しに隠していたのである。けれども、彼は数学試合を行わなかった。そして、彼はこの秘法を弟子のアントニオ・マリア・フィオールに教えた後に死んだ。
3. ニコロ・タルタリア(c.1506~1557)
ニコロは、北イタリアのブレッシャに、郵便配達夫の子として生まれた。1512年、ブレッシャの町はフランス軍の攻撃を受けた。当時のヨーロッパにおいては、イタリアの支配をめぐってフランス、ドイツ、スペインの激しい勢力争いが長く続き、イタリアの地はたびたび戦場となっていた。この争いはイタリア戦争と呼ばれている。ルネサンス最盛期にあったイタリアは、文化の面ではヨーロッパ随一の先進地域であったが、多数の都市国家に分裂していたために、軍事力においては弱小で、周辺の強国の攻勢に翻弄されるばかりであった。さて、ブレッシャの町民の多くは、フランス軍の兵士の襲撃を逃れ、町の大聖堂の中に隠れて立て籠もった。6歳のニコロ少年も父親とともにその中にいたのである。しかし、扉を打ち破って侵入して来た兵士たちによって、ほとんどの者が殺された。その場にいなかったニコロの母親は、大聖堂に駆けつけ、堂内に転がる死体を掻き分けながら、懸命に夫とわが子を捜した。ニコロは生きていた。だが、その顔面は口から顎にかけて大きく切られ、瀕死の重傷であった。薬も医者にかける金もなく窮した母親は、あることに思い至った。それは、犬たちが傷を舐めて治すということであった。母親は、来る日も来る日も、神に祈りながらわが子の傷をひたすら舐め続けた。ついに母の愛が勝った。奇蹟的にニコロは回復したのである。しかし、言語障害が残り、少年はどもりながら話すようになった。そのため、彼は、「どもり」を意味する「タルタリア」というあだ名で呼ばれた。本名はニコロ・フォンタナであったが、後年、彼自身も公式にタルタリアと名乗ることになる。夫に死なれたニコロの母親は必死に働いたが、賢いわが子を学校に通わせることができなかった。少年は教科書の写しを盗んで自力で読み書きを学んだ。また、紙や石板を買う金がないので、毎日のように墓地へ行き石板の代わりに墓石を利用して勉強した。
独学の士タルタリアのこのような艱難辛苦の勉学が何年くらい続いたのかはっきりしないが、その間、彼は数学に異常な能力を示し、30歳前後と思われる時期に、ヴェローナの数学教師として社会生活を開始した。当時、イタリア諸都市において開設され発展していた、商人や職人を養成するための学校の教師を務めていたのだろうと推測される。
その後、ヴィチェンツァ、ブレッシャに、1535年には終生そこで過ごすことになるヴェネツィアに移った。その頃、3次方程式の解法が見つかったという噂が広まり、それに刺激されたタルタリアは3次方程式の研究に没頭した。まず彼は、x3+ax2=b の型の方程式の解法を見出した。その話を聞きつけた前節に登場のフィオールは、それが嘘であろうと思い、師シピオーネより授かった秘伝の技を引っ下げて、タルタリアに数学試合を挑んだのである。定められた期間の満了の少し前に、タルタリアは霊感を得て、フィオールの出題した型の、すなわちシピオーネの解いた型の方程式の解法を発見し、与えられた30題をすべて解いた。他方、フィオールはタルタリアの提示した30題のほとんどを解くことができず、タルタリアの一方的な勝利に終った。かくして、タルタリアは、シピオーネには遅れたが、彼とは独立に、3次方程式の解法の発見者となったのである。そして、その発見はルネサンス数学の最大の成果の一つであった。
4. ジローラモ・カルダーノ(1501~1576)
カルダーノは、法律学者の庶子として、北イタリアのパヴィアに生まれた。彼は、パヴィアとパドヴァの大学で教育を受け、学位を取得した。ルネサンス人らしく多彩な才能に恵まれていた彼は、医師、占星術師、数学者、物理学者、哲学者として活躍し、非常な名声を博した。ちなみに、当時は、数学者は占星術師や医師を兼ねることが多かった。それは、占星術は星の動きを計算する上で数学と直結していたし、さらに、その頃の医学においては、人体の各部分はそれぞれ異なる星座や惑星の動きに支配されていると盲目的に信じられていたからである。医師や学者として非常に有名ではあったが、カルダーノは、賭博師でもあり、人格的に信用できない面をもっていた。ある時はボローニャ大学の教授をしていたかと思えば、別の時には私立の養老院へ入っていたり、また、ミラノの医科大学の学長を務めていたかと思えば、イエス・キリストを占星術によって占い、その結果を公表して、異端者の烙印を押されるなど、才能はあるけれども、およそ定見や信条など持ち合わせていない非常識な人物であった。
18世紀フランスのかの有名な啓蒙思想家ヴォルテールに激しい敵意を抱いていたある人物がヴォルテールについて次のように言っている。「あのならず者の一番の悪徳は、時々有徳の士になりすますことである。」いみじくも、この評言はそのままカルダーノについても当てはまるという。
カルダーノの家庭の状況も異常であった。彼の二人の息子の行状が極めて悪かったのである。長男は自分の妻を毒殺し斬首刑に処せられた。それと同じ頃、やくざ者の次男も罪を犯し、カルダーノは激怒のあまり、息子の耳を切り落としてしまったという。このような常軌を逸した暴力行為にも拘らず、彼は何の処罰も受けなかった。ローマ教皇グレゴリウス13世が彼に庇護を与えていたのである。彼は、当代きっての占星術師と目されていたので、晩年はローマへ行き、教皇庁付きの占星術師として仕えた。この上ない名誉ではあったが、これは彼にとって致命的であった。なぜならば、彼は自身の死の年月日を占星術によって予言していたので、占星術師としての輝かしい名声を維持するためには、その特定の日に自殺しなければならなくなったからである。
前節で述べられた数学試合におけるタルタリアの鮮やかな勝利を知ってから、カルダーノはタルタリアへの接近を図った。その頃、カルダーノは、数学、天文学、物理学その他種々の分野の知識を包括する著書 「大技法」の原稿を書き始めていたが、それに3次方程式についての記事も載せたいと考えていたのである。そこで、彼はタルタリアに手紙でその解法を教えて欲しいと頼み込んだ。タルタリアはそれをにべもなく拒絶した。するとカルダーノから極めて激しい言葉でののしる返事が来たが、その後ほどなく、「あるイタリアの貴族が、貴下の名声を聞きつけ、貴下に会いたいと切望しているので、今すぐにミラノまでお越し頂けないだろうか」と乞い願う丁重な手紙が届いたのである。有力な後援者を欲していたタルタリアは、ついそれに乗ってしまい、はるばるヴェネツィアからミラノまで旅して来たが、彼を待っているという貴族はいなかった。カルダーノは、その貴族は急に旅行に出かけたがすぐに帰るはずだと言って、タルタリアのミラノ滞在を引き延ばした。カルダーノは、彼を自宅に連れて行き、3次方程式の解法の教示を執拗に迫った。ついに根負けしたタルタリアは、それを決して公表しないことを厳粛に宣誓させた後に、解法を秘密めかした詩の形にしてカルダーノに与えたのである。その詩は今でも残っている。
とうとう求めていたものを手に入れたカルダーノであったが、宣誓の上でのことであったから、すぐにはそれを著書に書き込むことができなかった。そこで、彼は、タルタリアよりも早くボローニャのシピオーネ・デル・フェッロが3次方程式の解法を発見していたという噂を以前に聞いていたので、まず、それが真実であるかどうかを確かめることにした。そのため、彼は、1543年、弟子のルドヴィーコ・フェッラーリを伴いボローニャへ赴いた。彼らはシピオーネの遺稿を調査する許可を得て調べてみたが、その中に3次方程式の解法がはっきりと記されていることを確認したのである。これで3次方程式の解法はタルタリアだけの独創ではないことが明らかになったので、カルダーノは、それを秘密にしておく必要はなくなったと考え、宣誓を無視して 「大技法」 にそれを書き入れることにした。けれども、そこでは、彼は、x3+ax = b の解法はシピオーネにより発見されたが、その後タルタリアにより再発見され、さらに他の型の解法もタルタリアが発見したと公正に述べ、自身の業績にはしていないのである。1545年、「大技法」 が出版されるや、タルタリアは激怒した。彼は、自力で発見した取って置きの成果を自分の著書において発表し、華やかな名声を得ようと思っていたのである。憤懣やるかたない彼は、カルダーノとのこれまでのいきさつを宣誓の原文とともに詳細に公表した。激しい論争の末、苛立ったタルタリアはカルダーノに、数学試合を申し込んだ。試合場はミラノのある教会に決まり、準備が整えられた。ところが、試合の当日、会場にカルダーノは姿を見せず、代わりにフェッラーリがやって来た。タルタリアは、カルダーノは逃げたのだから、自分の勝ちだと宣言し、フェッラーリは、自分と勝負をしようとしないタルタリアの負けだと主張した。とうとう、この試合はお流れとなった。結局、タルタリアはカルダーノのペテン師的策略にうまく乗せられた形となったのである。他方、カルダーノの著作「大技法」は、彼の驚くべき多才と博識を示し、後世に大きな影響を与える名著となった。
5. ルドヴィーコ・フェッラーリ(1522~c.1560)
フェッラーリはボローニャの貧しい家に生まれた。15歳のときに、彼はミラノのカルダーノの家に使い走りの下僕として雇われた。やがて、カルダーノは、彼が恐るべき数学の天才であることに気づき、自分の講義への出席を許可した。すぐに、彼は最も優秀な弟子となり、主人の秘書を務めるようになった。彼は、小柄で身ぎれいな、そして柔らかな声と明るい顔をもつ、人好きのする少年であった。しかし、彼は成長するにつれ、快楽を好み、放縦な生活を送るようになった。その性格は悪鬼さながらであったという。彼は主人の悪魔的性格を不道徳な習慣とともにそのまま受け継いだのである。彼はカルダーノの家庭においてもしばしばトラブルを引き起こし、18歳のときには、遂に主人の家を飛び出して独立した。ミラノで数学教師として生計を立て始めたのである。フェッラーリが20歳を少し過ぎた頃のことと思われるが、ズアンネ・デ・トニーニ・ダ・コイという数学者が、カルダーノに、4次方程式
x4+6x2+36 = 60x を含むいくつかの問題を提示し、解答を要求してきた。彼はこの方程式を解くことができなかったので、それをフェッラーリに与えた。フェッラーリは、3次方程式に帰着させる巧妙な手法を編み出し、これを見事に解いた。そして、その技法は一般解法に通じるものであった。かくして、3次方程式の解決後10年も経たぬうちに、4次方程式の解法までもが見出されたのである。この方法は「大技法」にも紹介されているが、カルダーノは、それはフェッラーリの功績であると明言している。また、タルタリアとカルダーノの流れ試合の後、タルタリアは、今度はフェッラーリに改めて数学試合を挑んできた。フェッラーリが勝利し、タルタリアは名声と財産を失った。このようなフェッラーリの活躍は、マントヴァの枢機卿フェッランド・ゴンザーガの宮廷の注目するところとなった。その推薦により、彼はボローニャ大学の数学教授の地位を得て、故郷に錦を飾った。しかし、放埓な生活は彼の健康を著しく蝕んでいた。大学に就任したその年に彼は著作も残さずに死んだ。一説には、彼が唯一愛情を感じていたという妹に毒殺されたのだろうと伝えられているが、真相は不明である。
(平成21年3月8日 記す)