「浩洋会」について

  私は、昭和41年4月に東京理科大学理学部数学科に着任しました。第1期の卒業研究の学生は7名だったと記憶しています。当時の私はまだ若かったせいもあって、宮原先生2005年3月河野撮影「ゼミは厳しく指導すべきである」などと考え、よせばよいのに、その考えを忠実に実行したため、学生諸君からずいぶん敬遠されていました。しかもその頃の私はお酒があまり飲めなくて、ゼミのコンパも年に1回程度しか開かれず、学生諸君との距離は大きく開いていたように思います。着任後2年ほどはそのような状態でした。私のこのような冷厳(?)な態度が、がらがらと音を立てるように崩壊したのは、第3期の卒業研究においてでした。このときのゼミ生は男子ばかり7名でしたが、暴れん坊ぞろいで、初めてのコンパからして相当に荒れ、泥酔者が続出して、救急車は来ませんでしたが、「鮒忠」には以後2度と行けなくなりました。しかし、このときから師弟の間に親近感が生まれ、その後ゼミの雰囲気は和気あいあいとしたものになってゆきました。私も以前のように学生を叱ることができなくなりました。このゼミの年度の後半には、いつの間にか、毎週ゼミ終了後には必ずコンパが行われるようになっていました。私が、現在のように、少しばかりのお酒をたしなめるようになれたのは、このときのゼミ生諸君による訓練の賜物です。それから後は私にも学生諸君とうまくつき合う「こつ」が分かって、次年度の卒業研究はよい雰囲気で行えるようになりました。
 そのような時期です。「浩洋会」が生まれたのは。第4期の卒業研究のときに、ゼミの卒業生も少し増えたことだし、年末に卒業生を招いて、クリスマスパーティでも開こうではないかという意見が出たことが、「浩洋会」が生まれるきっかけとなりました。最初の2年ほどは、教室を借りて、飾りつけをして、クリスマスパーティを開催しましたが、結局は2次会として街の酒場へ行くことになるので、それなら始めから料亭を会場にする方がよいということになりました。この頃、卒業生と卒研生の全体の会という概念が生まれて、これに名称を与え、名簿を作成すべし、という意見が出されました。「浩洋会」という名称は、私が考えました。御存知のように、理科大の校歌の歌詞からとったもので、「ひろいうみ」という意味です。あるとき、例会の案内状に「紅葉会」と書いた幹事がいて、あわてて訂正させたことがありました。「浩洋会」結成後、毎年例会を開催していますが、私も卒業生諸君と旧交を温めることを楽しみにして来ました。
 浩洋会の最大の意義は、やはり先輩後輩の間の交流や協力にあると思います。いわゆる「縦のつながり」です。社会に出たときに、同じ職場に勤めていなくても、思わぬ場所で先輩や後輩に出会うこともあり、心丈夫な思いや懐かしい思いをすることもあるでしょう。また、例会で知り合ってから交友が長く続いている例もあり、そのような交友関係を見ると、私は大変うれしくなります。現在は何も交流がなくても、浩洋会のメンバーとしてお互いに知り合っているというだけでも十分意味があるのです。今後何かのきっかけからメンバー間の発展的な交友関係が始まるという可能性があるからです。喜ばしいことに、浩洋会のメンバーで夫婦が3組出ています。その外、姉弟、高校の師弟がメンバーになっている例など非常に珍しいことです。特に珍しいのが、私の弟子の弟子のそのまた弟子の全員がメンバーであるという例です。浩洋会に私のいわば純粋の曾孫弟子ができたということで、これは大学に長く勤めたことで得られた効用といえるでしょう。
宮原先生2005年3月河野撮影  昨年3月、私は無事に定年を迎えることができましたが、その節は浩洋会主催の退職記念パーティを開催して頂き、深く感謝しております。 退職までに担当した卒業研究は39期を数え、総計528名の卒業生をわがゼミから送り出したことになります。わがゼミ出身の500人を越える人たちが現在、社会で活動していることを考えると、心強い限りです。今後の皆さんのさらなる活躍を期待してやみません。純粋数学に対する私の貢献は微々たるものですが、この「528人」は社会に対する大きな貢献であると私は思っております。これから私は「528人」を一生の誇りとして生きてゆきます。


528人の皆さん、私のゼミを選んで下さって本当にありがとう。
平成17年3月23日記す
宮原 靖 

宮原教授退職記念講演会

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