西暦1492年 (平成22年浩洋会例会講演)
西暦1492年という年は、ヨーロッパの歴史に極めて重大な影響を及ぼした四つの出来事が集中して発生した非常に珍しい年である。その出来事とは、グラナダ開城、ロレンツォ・デ・メディチ死去、教皇アレクサンデル6世登場、コロンブスの新世界発見、である。その中の二つは直接的な関連を持っているが、他は偶然性が高く、互いに強い因果関係を持つものではない。そしてまた、西暦1492年の頃は、ちょうどイタリア・ルネサンスの活動の真っ最中であり、まさに、ヨーロッパがこれから目覚しい発展をしてゆこうとしていた時期であった。ルネサンスを背景に生じた上記の四つの出来事は、果たしてルネサンスと何らかの関連を持っているのであろうか。これらの中には、ルネサンスに直結しているものもあれば、はっきりとはしないが間接的に何か関連がありそうな気配がするものもある。いずれにしても、これらはすべて、良くも悪くも歴史の流れを大きく変え、時代を画した出来事であった。それでは、これらについて、発生した順に説明してゆこう。
1. グラナダ開城
西暦711年、かつては東ローマ帝国の領土であった北アフリカ地方一帯を奪取し、支配していたイスラム帝国の大軍は、ジブラルタル海峡を渡り、イベリア半島(現在のスペイン、ポルトガル)を統治していた西ゴート王国に攻め入った。当時弱体化していた王国は、イスラム軍にひとたまりもなく大敗し、その300年の歴史を閉じた。しかし、西ゴート王国の残存勢力は、イベリア半島の最北の山岳地帯へ逃れて、新たにアストゥリアス王国を建設し、辛うじて余命を保ったのである。イベリア半島の大半を支配下に置いたアラブ人のイスラム勢力は、ダマスクスを首都とするイスラム帝国本家とは決別し、756年にコルドバを首都とするコルドバ・イスラム国を創った。この国は以後250年余り続いたが、その絶頂期は9世紀後半から10世紀前半にかけてであった。最盛期においては、人口50万を擁したコルドバは、繁栄を極め、中世ヨーロッパの文化の中心地であった。
一方、生き残ったカトリック勢力であるアストゥリアス王国は、イスラムに占領された領土を奪還すべく、イスラム軍との戦いを開始した。これをレコンキスタ(国土回復戦争)という。1031年にコルドバ・イスラム国が内乱により崩壊し、群小のイスラム諸王領に分裂したのを契機として、以後レコンキスタが激しくなっていった。アストゥリアス王国の建設を行ったスペインのカトリック勢力は、レコンキスタ持続のため、統合、合併を繰り返し、カスティーリャ王国、アラゴン王国などが成立した。カスティーリャ王国は、1085年にトレドを、1236年には遂にコルドバを奪回した。1469年、カスティーリャ王女イサベルとアラゴン皇太子フェルナンドが結婚し、その後両者とも女王、王となって、カスティーリャ・アラゴン連合王国が成立した。これが現代まで続くイスパニア王国の始まりであった。後に、イサベルとフェルナンドは「カトリック両王」と言う称号をローマ教皇より授けられた。
次々に領土を失っていったイスラム勢力の最後の砦は、イベリア半島南部アンダルシア地方のグラナダ王国であった。1481年、カトリック両王の軍はグラナダ攻撃を開始した。およそ10年も続いたこの戦いは、グラナダ王国の内乱にも助けられ、次第にカトリック軍が優勢となって、アランブラ宮殿を包囲されたグラナダ王ボアブディルはやむなく降伏を決意するに至った。遂に、1492年1月2日、グラナダ王国は滅亡し、アランブラ宮殿はカトリック両王に明け渡された。ここに、ようやくレコンキスタは完遂され、イスラム帝国がイベリア半島を占領して以来、実に780年もの歳月の後に、半島全体がカトリック勢力の手に戻ったのである。キリスト教に改宗しないアラブ人やユダヤ人などの異教徒たちをすべて半島から追放したイスパニア王国は、この後、厳格で非寛容なカトリック教国として王権を強化し、西欧一の強国に成長していった。
2. ロレンツォ・デ・メディチ死去
中世も末期の1300年頃、イタリアの富裕な都市フィレンツェにおいて、目覚しい文化運動が起こった。世に言う「ルネサンス」である。14世紀半ばにはペストがヨーロッパ全体に蔓延し、人口の3分の1が失われるという大きな危機に見舞われたにもかかわらず、このルネサンスの活動は主にイタリアを中心として実に300年の長きにわたり継続したのである。フィレンツェに始まったルネサンスは、その後、ローマ、ヴェネツィアへとその中心地を移してゆく。
一介の商人から身を起こし銀行業を成功させたフィレンツェのメディチ家は、ローマ教皇庁の財務管理者となり、益々その富を増大させていった。1435年頃、優れた経営手腕を持っていたメディチ家の当主コジモ(1389~1464)は、フィレンツェの事実上の支配者となり、メディチ家は銀行業だけでなく、毛織物、香辛料、工芸品、農産物など多くの商品を取り扱う商社としても発展し、ヨーロッパでも一二を争う大富豪となった。教養も豊かであったコジモは、ルネサンス活動のパトロンとして大規模な援助を行った。彼は、多数の古典の書物を収集してヨーロッパで初めての図書館を創設したり、プラトン研究のための研究所「プラトン・アカデミー」を設立し、学者の養成を行った。また、彼は画家や彫刻家、そして建築家にとっても偉大なパトロンであった。彼の寄付金により、フィレンツェ市内にいくつもの教会や修道院が建造された。彼の保護の下に、幾多の大芸術家が育成された。
コジモの孫ロレンツォ(1449~1492)は、父が早く死んだために、20歳にしてメディチ家の当主となった。ロレンツォもまた、哲学、文学、美術、音楽など広範な教養を身に着け、祖父に劣らない優れた政治家でもあった。当時のローマ教皇シクストゥス4世は非常に野心的な人物で、交通の要衝の都市イモラの買い取りを計画し、そのための資金の融資をメディチ銀行に求めた。しかし、イモラはフィレンツェにとっても戦略上の要地であったため、それを認めることはできなかった。ロレンツォが教皇庁への融資を渋ったので、教皇はメディチ家の仇敵であるフィレンツェの名門貴族パッツィ家に融資を依頼した。そして、教皇は教皇庁の財務管理の権利をメディチ家から取り上げ、パッツィ家に与えたのである。こうして教皇庁の後ろ盾を得たパッツィ家は、長年メディチ家の後塵を拝していた口惜しさを晴らし、フィレンツェにおける覇権をメディチ家から奪うための絶好の機会だと捉えた。そこで、彼らは、秘かにメディチ家と敵対関係にある有力者を集めて、ロレンツォと弟のジュリアーノを暗殺する計画を立て、教皇はそれを黙認した。その計画は、1478年4月26日に実行に移された。こともあろうに、花の聖母教会におけるミサの真っ最中に行われたのである。ロレンツォは、とっさに刺客の刃をかわし傷を負いながらも辛うじて逃げることができたが、ジュリアーノは全身を滅多切りにされ息絶えた。この騒動は直ちにフィレンツェ市内全域に広がり、内乱のような状態になった。メディチ家の支持者たちが少数派のパッツィ家支持者たちを圧倒し、暗殺者たちを捕えてリンチのような形で殺してしまった。パッツィ家の者たちはすべて捕えられ、処刑あるいは投獄された。これが、歴史上有名な「パッツィ家の陰謀」の概略である。
学問や芸術に造詣が深かったロレンツォは、祖父コジモと同じように、パトロンとして多数の学者や芸術家を支援し、ルネサンスの発展に大きな貢献をした。ロレンツォは、祖父が設立した「プラトン・アカデミー」に入門して、哲学を学び、討論にも加わったという。特筆すべきは、彼の時代が、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ボッティチェッリなど稀代の巨匠たちが次々に現れ、華々しく活躍したルネサンス美術の黄金時代であったということである。まさに、ロレンツォこそはイタリア・ルネサンスの全盛時代を導き出した影の主役と言ってよいであろう。しかし、彼はメディチ家本来の仕事である銀行や商社の業務にはさほど優れた能力を発揮することがなかった。貿易の不振などの外的要因もあって、メディチ家の経営状態は、祖父コジモの時代を頂点として次第に下り坂となり、資金難をかこつほどに悪化していたのである。それに加えて、長年苦しんでいた持病が重くなり、ついに1492年4月9日、ロレンツォは家族や友人に看取られながら亡くなった。43歳という若さであった。ロレンツォの死後、有能な後継者は現れず、間もなくフィレンツェは著しい政情不安を迎え、挙句の果てにメディチ家は市政府から追放されてしまった。強力な指導者がいなくなったフィレンツェのかつての繁栄は失われ、以後、ルネサンスの中心地はフィレンツェを去ってローマへと移ってゆくのである。
3. 教皇アレクサンデル6世登場
1492年7月31日、ローマ教皇インノケンティウス8世が死んだ。直ちに、教皇選出会議(コンクラーヴェ)が開催された。幾人かの候補者がいた。デッラ・ローヴェレ、アスカニオ・スフォルツァ、ロドリーゴ・ボルジアという3人の枢機卿であった。デッラ・ローヴェレは、前教皇の黒幕的存在であって横暴を極めたことなどの理由から、会議が開かれるとすぐに不利な状況になり、アスカニオも望みが薄れてきた。ここに至り、始めは有力視されていなかったスペインの貴族出身のロドリーゴ・ボルジアが俄然有望となった。彼は莫大な財産や多数の聖職禄などを所有する大富豪であったので、現金や聖職禄を惜しみなくばらまき、次々に投票有権者の支持を取りつけていった。コンクラーヴェ開催後5日目、8月11日の夜明けに、ロドリーゴ・ボルジアの教皇就任が発表され、同月26日に戴冠式が行われた。教皇アレクサンデル6世の誕生であった。新教皇の登場は、露骨な買収工作を行ったにもかかわらず、ローマ市民やイタリアの君主たちから好意をもって迎えられた。それに応えるかのように、新教皇は、それまで極めて治安の悪かったローマ市内の秩序回復に努めたのである。
やがて、アレクサンデル6世はその強欲な正体をあらわにし始めた。彼は、教皇庁を中心とするボルジア一族の強固な絆を作ろうとし、親族に重要な役職を次々に与えていった。まず、彼はボルジア家が所有していたバレンシア司教区を18歳の長男のチェーザレに与え、同時に、甥のホアン・ボルジア・ランソルを枢機卿に任命した。彼がその治世の間に任命したボルジア家出身の枢機卿は5名に上る。教皇に就任して1か月後には、長男のチェーザレも枢機卿となった。当時の記録によれば、教会や国家の要職に就いたボルジア一族の者は30人を越えていたという。しかし、無能であった前教皇の残した教皇領は混乱状態にあった。教皇領内の諸都市は、地方君主に勝手に占有されるか支配される寸前にあって、教皇の統治は不可能になっていた。
このように困難な時期に、さらに、アレクサンデル6世はこの上ない苦境に陥った。1494年にナポリ王フェランテが死去したのを機に、フランス王シャルル8世が、ナポリの王位継承権を要求し、大軍を率いてイタリアへ侵入して来たのである。そして、教皇に王位継承権を承認して欲しいと、面会を申し入れてきた。ミラノ公や教皇の仇敵デッラ・ローヴェレ、さらに、ロレンツォという偉大な指導者を失ったフィレンツェなどは、シャルルを大歓迎し、支援した。シャルルは腹の中では、ナポリの王位を手に入れた後には、多くの支援者の支持をとりつけ、アレクサンデルを教皇の座から引き摺り下ろそうと思っていたのであった。シャルルの大軍の前に、教皇領の諸都市は次々に進路を開いた。シャルル支持の枢機卿は皆ヴァティカン宮殿から逃げ去った。アレクサンデルの支持者も次々にフランス側に寝返り、遂にローマの開城を決意した彼は、フランス王を迎える準備をし始めた。そして、教皇と王の特使たちの間に協定が結ばれた。それによって、王のナポリへの通行権は認められ、教皇の長男チェーザレ枢機卿が王の人質となることなどが決められたが、ナポリの王位継承権については触れられていなかった。教皇との会見の実現に興奮した王は教皇側の腹芸にしてやられたのである。シャルルはヴァティカン宮殿に入り、教皇に面会した。アレクサンデルの優雅な立居振舞に魅了され、「教皇座」の威厳に打たれた王は、思わず教皇の前にひざまづいてしまった。教皇の勝ちであった。とうとう王はナポリの王位の承認を得ることができなかったが、教皇による荘厳なミサを受けた後、ナポリ征服のために旅立った。王の人質となったチェーザレもその一行に加わった。ところが、この旅の途中で、チェーザレは、秘かに遠征隊を抜け出し逃走したのであった。それを待っていたアレクサンデルは、直ちにイタリア諸国に呼びかけ、同盟を結成した。スペインやドイツ帝国までこの同盟に加わった。敵に囲まれてしまったシャルルの軍は、イタリア侵入時の威容はどこへやら、大慌てに慌ててフランスへと逃げ帰った。この辺のいきさつについては、塩野七生著「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」に詳述されている。
本来、ローマ教皇の権威は、皇帝のそれに並び立つものであって、西欧諸国にあまねく行き渡っているはずのものである。教皇は、何百年も前にフランク王国のピピン王より寄進を受けたことに起源を持つ広大な領地を所有しているが、それを護るための自前の軍隊を持っていないということが唯一の弱点であった。それが、アレクサンデル6世が登場する以前のように、教皇領が周辺の地方君主によって、次々に侵食されていった理由である。そこで、アレクサンデルは、衰微していたローマを建て直すために、まずローマ教会に所属する軍隊を組織し、チェーザレを教会軍総司令官に任命して、占領されていた教皇領を次々に奪回させ、さらに領土を拡大していったのである。チェーザレは、武勇と智略に優れた有能な武将であったが、他方、冷酷かつ残虐な性格の持主であり、騙し討ちや裏切り、暗殺など日常茶飯事であった。権謀術数にたけた狡猾な父とともに行った教会勢力の拡大方策は、その強欲さと残忍さにより全イタリアを恐怖せしめた。しかし、1503年になって、悪名高いボルジア家父子にも突然の悲劇がやって来た。その夏にローマで流行し始めたマラリアに、親子ともども感染したのである。同年8月13日、アレクサンデル6世は死んだ。享年72歳であった。一方、チェーザレは、この病を辛くも克服し、父の死後、猛然と湧き起こった反ボルジア派の攻勢を前にして建て直しを図ったが、運はもはや彼を見離し、囚われの身となった。チェーザレは脱出には成功したが、再起を図るもむなしく、1507年、乱戦のさなかに戦死した。32歳の若さであった。
その悪名はともかく、アレクサンデル6世は、弱体となっていた教皇庁の再興を目指し、ローマの再生に尽力した教皇であった。ルネサンスの強力な指導者、ロレンツォ・デ・メディチの死の年に、彼がローマ教皇に就任したことは極めて象徴的である。アレクサンデルは、文化的な記念物は残さなかったが、芸術に関心を示していたのは事実であって、それが周囲への良い刺激となった。彼が先導役となり、2代後の教皇ユリウス2世(アレクサンデルの仇敵デッラ・ローヴェレ)および次の教皇レオ10世(ロレンツォ・デ・メディチの息子)の時代には、画家ミケランジェロ、ラファエッロや建築家ブラマンテらがローマに招かれ、ローマは、フィレンツェに代わって、ルネサンスの中心地として隆盛を迎えるのである。しかし一方では、アレクサンデルは腐敗と暴力を教皇庁に持ち込んだ。そして、ユリウスとレオの時代には、贅沢と浪費が教皇庁にはびこり、その財政は危機に瀕した。その結果が、教皇庁による贖宥状(免罪符)の大規模な発行となり、それがマルティン・ルターらの宗教改革(1517年が始まり)を招いたのである。ヨーロッパは大混乱となったが、とうとうローマ教会は分裂の憂き目に会い、以後その傷は修復されることがなかった。その遠因を作ったのがアレクサンデル6世であった。
4. コロンブスの新世界発見
クリストファー・コロンブス(1451~1506)はイタリアのジェノヴァに毛織物職人の子として生まれた。有能な彼は、独学で、天文学、地理学、航海術などを修めた。彼は、マルコ・ポーロの「東方見聞録」を読み、カタイ(中国)や ジパング(日本)に多大の関心と夢を抱いた。1488年にはポルトガルの航海者バルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰に到達していたが、その先は未知の海であった。コロンブスは種々の書物を読んでゆくうちに、カタイやジパングに達するには、大西洋を西へ進む方が喜望峰を回るよりも近道ではないかと考えるようになった。そこで、彼はフィレンツェの万能の学者パオロ・トスカネッリに手紙で教えを乞うたところ、地図を添えて返事が送られて来たが、それにはヨーロッパからカタイまでの距離が実際の距離の3分の1ほどに見積もられてあった。彼は自分の考えが正しかったと確信し、西方への航海計画を練り上げたのである。彼はその計画を持ってポルトガル王ジョアン2世に謁見し、航海のための資金援助を願い出たが、ポルトガルは当時アフリカの探検に力を注いでいたので、断られてしまった。やむなく、彼は隣国のスペインの宮廷を訪れた。折りしもスペインはレコンキスタの遂行中で、航海どころではなく、なかなか資金援助の交渉は捗らなかった。ところが、1節で述べられたように、1492年1月にグラナダが陥落し、レコンキスタが完了したのを契機として、イサベル女王が彼の航海計画を取り上げ、支援を約束したのである。
かくして、同年8月3日コロンブスは、サンタ・マリア、ニーニャ、ピンタ号の3隻を率いてパロス港を出帆し西方へ向かった。そして、彼は10月12日にバハマ諸島のサン・サルバドル島に辿り着き、さらに彼はキューバ島、ハイチ島を発見した。彼らはこれらの島々に足跡を印した最初のヨーロッパ人となった。彼は、その地域を地図に載っていない完全に未知の陸地であるとは夢にも思わず、インディアス(インド)の一部分と考えていた。彼は翌年1月に、乗組員の一部をハイチ島に残して帰国の途につき、3月にパロス港に帰還した。コロンブスはスペイン国民の熱狂的な歓迎を受け、カトリック両王から貴族に叙せられ、インディアスの副王兼総督の称号を与えられた。現地では香料、金銀、宝石などが大量に手に入るであろうというコロンブスの誇張された言葉を信じた両王は、二度目の航海を認可した。
当時、盛んに行われていた未知の世界への航海は、香料、貴金属、宝石、奴隷などを目当てとした新たな通商の道を発見すること、さらにはキリスト教を広く伝道することを目的としていた。それを強力に推し進めていたのは、ポルトガルとスペインであった。両国の争いは激しくなり、両国はともに大西洋一帯の征服と貿易の独占権を、教皇に請願したのである。その教皇とは、外でもない、前節で述べられたボルジア家のアレクサンデル6世であった。アレクサンデルはスペイン出身であるため、常にスペイン王の支援を受けていたので、スペインに有利な裁定を行った(1493年)。これにポルトガルが猛反発し、その後互いに譲歩し合った結果、西経46度37分の経線より東はポルトガルの、西はスペインの領土という取り決めがなされた。これをトルデシリャス条約(1494年)という。これによってブラジルはポルトガルに所属することになった。
コロンブスの二度目の探検は、1493年9月に行われた。今度は17隻の帆船と1500人の乗組員を引率しての大遠征であった。11月末に一行はドミニカ島に到着した。さらに、グアドループ、プエルトリコなどの島々を発見した後、前の航海で部下を残しておいたハイチ島にやって来た。ところが、居残った部下たちは先住民に皆殺しにされていたのである。連れて来た1500人の乗組員は、この島に居住地を定め生活し始めた。彼らは傍若無人に振る舞い、先住民を迫害した。両者の間に戦いが始まったが、スペイン人の武器に対抗できるはずもなく、先住民たちは次々と殺され、あるいは捕えられていった。島内は混乱状態に陥ったが、コロンブスは後始末を弟のバルトロメオに任せて、1496年に、島で捕えた先住民の捕虜500人を引き連れてカディス港に帰還した。そして、その捕虜たちを奴隷として売り払ったのである。弟に託してきたハイチ島では、闘争が激化し遂に先住民は全滅したという。コロンブスの二度目の航海はこのような結果に終り、彼の植民地経営の能力のなさを見せつけた。しかも、彼が宣伝していたような利益ももたらされることなく、彼に対する不信の念が高まっていった。この後、コロンブスは三度目、四度目の航海に出かけたが、いずれも規模が小さな遠征で成功とは言えなかった。ただ、三度目の航海(1498年)においては、南米大陸ヴェネズエラのオリノコ河口の近くに達してはいたのである。ここで彼は、大量の淡水が流れ出しているのを見て、これは大陸ではないかと想像したものの、詳しく調査する余裕がなかった。彼は事実上新大陸を発見していながら、それを確認することができなかった。彼の目的は、未知の陸地を発見することではなく、カタイあるいはジパングに到達し、香辛料、金銀、宝石などの富を持ち帰ることであったが、それは遂に実現することがなかった。イサベル女王が1504年に死去し、最大の後援者を失った彼は、人々に忘れ去られて、最後の航海から2年後の1506年に不遇のうちに生涯を閉じた。
コロンブスや、彼と同世代であり、喜望峰を回ってインド航路を発見したポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマ、少し若い世代の、船による世界一周を成功させたポルトガル人のフェルディナンド・マジェラン、その他多くの探検家たちが活躍したこの時代は、「大航海時代」と称されている。彼らの活躍により、地球に関する知識が飛躍的に増大し、人々の世界観が革命的に変化した。新航路の開拓により、ヨーロッパには新しい富や物産がもたらされ、人々の生活を豊かにした。発見された広大な新しい土地には、民族の大移動さながら、続々とヨーロッパの人々が押し寄せ、植民、定住が盛んに行われた。その結果、後々、アメリカ合衆国などの新しい国々が次々に誕生した。このような目覚しい発展の陰には、移民たちに迫害された何の罪もない先住民たちの悲惨なおびただしい犠牲が伴われていたのであるが。ともあれ、「大航海時代」は、近代の世界に極めて大きな影響を及ぼした歴史上特筆すべき時代であった。
(平成22年11月19日記す)