卒研生寄稿 「昭和53年ゼミの思い出」
私達がゼミで宮原先生から複素函数論を学んだのは昭和53年でした。当時は既に学生運動も遠い過去のものとなっていて、TVではピンクレディや太田裕美の曲が流れ、「勝手にシンドバット」でサザンオールスターズがこの頃デビューしました。またかぐや姫や吉田拓郎などのフォークがはやり、学生は勉強よりも家庭教師のアルバイト、マージャン、酒、デート、音楽に忙しい日々でした。(私だけかも?)
宮原先生のゼミは若宮校舎で行われ、英語のテキストを使った輪講スタイルで進められました。ゼミの時間には宮原先生は「苦虫」を常にかみしめており、厳しい授業(本当に!)が毎回続けられ、教室には緊張感が溢れていました。後々に浩洋会で聞くところの「ゼミ終了後は毎回のように飲み屋へ繰り出し、時には新宿や渋谷の歓楽街で宮原先生をご案内した」などということは全くありませんでした。
そして「夏の合宿」。場所は新潟と長野の県境にある妙高高原の赤倉に決定し、確か2泊3日(1泊2日?)でスキーペンションを貸しきりました。午前中に函数論の授業、午後は小学校の校庭を借りてソフトボールの練習、夜は宴会ととてもとても充実した内容でした。教科書は持って行ったはずですが授業の記憶が全くないのは私だけ? この合宿には、忙しい中を西郷さん、斎さん、佐々木さんなど先輩も見え、毎夜ビールビン(当時はビール缶ではなくビールビン)のケースが部屋の片隅に時間とともに積み重なり、合宿の最終日にはかなりの高さになっていたことが思い出されます。先輩達はどうも合宿地へ来る特急電車の中から酒盛りを始められたようで、少々できあがった状態で私達の合宿に合流されたようでした。そうです、合宿の思い出はズバリお酒だけです。そして浩洋会で恒例の西郷先生の「かんつう論」を知ったのもこの合宿からでした。これ以降西郷先生のこの講義を数えきれないほど聴かせて頂き、おかげで数多くの演習問題を解くことができました。社会に出てからは宮原先生の函数論よりも西郷先生の「か
んつう論」を復習する場面が多かったように思います。いつの時代でも復習は大事ですね。それから「かんつう論」の基礎さえよく勉強しておけば、応用問題も含めだいたいの問題は解けますし、時にはもっと高度な問題もやってみようという意欲さえ沸いてくるでしょう。高度の問題って・・・・・?。
さて、「浩洋会」。例年飯田橋のお店で行われていましたが、少し変わった所で開こうと現役で相談し、高田馬場の「海の家」というお店に決めました。ここの特典は、芸者さん(若かったコンパニオン)が何人か(5、6人?)同席してお勺したりいろいろな話で場を盛り上げてくれることでした。宮原先生も大変喜ばれたと今でも確信しております。(宮原先生の隣にもぬかりなく1人配置しておりましたので)
私達としては、先輩方にも喜んで頂いたはずだと思っていましたし、事実、会場内も和やかで楽しい雰囲気だったと記憶しております。しかしながらここでの浩洋会は、この1回だけだったようで、会費の問題か、お店が閉じてしまったのか、それとも宮原先生の隣の芸者さんが宮原先生の好みに合わなかったのか分かりませんが、その後は浩洋会は別のお店で続けられております。
このように宮原先生のゼミで1年を過ごし、複素函数論だけでなく、多くの貴重な体験を学び、翌年の春には北の丸公園の武道館で卒業式を終え、私達は2名が企業人として、そして多くが教員として社会の第1歩を歩み始めました。卒業して25年以上が過ぎ、私達皆は宮原先生のゼミを受けられたこと、それ以上に宮原先生に出会えたことに今でも感謝しております。